学生街の喫茶店

 60才以上の人で「学生街の喫茶店」という歌を知らない人はいないだろう。1972年の発売(最初はB面)だが、ブレイクしたのは1973年で、その年のオリコンチャートは3位だった。因みに1位と2位はいずれもぴんからトリオの「女のみち」「女のねがい」だった。確かにこの2曲もよく耳にしたが、今では我々の心にさほどの余韻を残していない。失礼ながら「女のねがい」などは殆ど忘れてしまった。

 この頃の歌謡曲は大きな文化だった。今日では「日本レコード大賞」の権威も地に落ちて、大賞受賞曲ですらここ数年間は聞いたこともないものばかりである。私達が齢を取りすぎたのだろうか。いや違うと思う。

 ここで1973年のオリコンチャートに掲げられた他の曲を示そう。4位:ちあきなおみ「喝采」、5位:沢田研二「危険なふたり」、6位:かぐや姫「神田川」、7位:チューリップ「心の旅」、8位と9位は天地真理で「恋する夏の日」「若葉のささやき」、10位:浅田美代子「赤い風船」、他にも麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」アグネス・チャン「ひなげしの花」、チェリッシュ「てんとう虫のサンバ」などがある。好き嫌いは別にしても、当時のこれらの歌は老若男女、殆どの人が知っていた。

 これらの中でマイベストの2曲は、本稿の表題でもある「学生街の喫茶店」と、実はオリコンチャートの20位にも入っていないのだが(何と85位!)ペトロ&カプリシャスで高橋真梨子が歌った「ジョニーへの伝言」である。

 

以下「学生街の喫茶店」について話を進める。作詞は山上路夫、作曲すぎやまこういちで、「ガロ」という男性トリオが歌った。私自身がこの歌をテレビで初めて聴いたのは1972年の暮れで、率直な印象は「懐かしい!」というものだった。歌詞の内容自体もそうだったが、我々が20才前後によく聴いていた歌(グループサウンズからフォーク)のフィーリングが再び掘り起こされたように感じた。

 前奏、間奏はボレロ調である。

♫ 君とよくこの店に来たものさ

 訳もなくお茶を飲み話したよ 

 学生で賑やかなこの店の

 片隅で聴いていたボブ・ディラン

 あの時の歌は聞こえない

 人の姿も変わったよ

 時は流れた ♫

 時は全共闘運動が終焉し、マルクス・レーニン主義や革命について熱く語っていた連中も、殆どその話題を口にしなくなっていた。私自身は貧乏学生だったくせにアルバイトで稼ぐ根性もなく、かといって真面目に勉強もせず、彼女いない歴1年で無気力な毎日を送っていた。

 しかしこの歌は心の琴線に触れた。同様の感覚を覚えた人が、同世代に多かったと思う。

 当時は「喫茶店」なるものも1つの文化だった。街を少し歩いて探すと容易に見つけることができた。あたかも今日のコンビニのようだった。確かにしばしば友人達と「訳もなく話した」。今日喫茶店といえばセルフサービスの、スターバックスなど1人で端末や携帯電話の画面を見ながら過ごす人の多い、そういう店が主流だが、これも「時は流れた」。

 この歌を聴いて目に浮かぶのは(あくまでも私自身の勝手な思いだが)同世代の友人が3-4人で、「そう言えばさあ、この頃はさあ、俺達こんなくだんねえことを言い合っちゃたりして、怒ったり喜んだりしてたよな。」と(どういう訳か東京弁で)昔話をだべっている、そういう情景である。

 全共闘など反体制運動の風潮(それにのめり込んでいたにせよ、アゲインストだったが巻き込まれて迷惑に感じていたにせよ)に疲弊した団塊の世代。しらけてきて現実に戻り、何か人生を考え直さないといけないなと思い始めた頃。当時の仲間達と会って語り合っているような、いわば心の郷愁を覚える曲なのである。

この歌のモデルになった喫茶店については諸説がある。よく言われたのは、お茶の水にあった「丘」で、私も予備校生時代に数回行った。確かに「学生で賑やか」だったし、「窓の外」に「街路樹」が見えたが、流れていた曲は「ボブ・ディラン」ではなく、クラシックの名曲だった。「丘」はその後閉店し、ゲームセンターになっていたが、それも無くなったと聞く。同地が今日どうなっているのかは知らない。

 他に早稲田大学近くの「プランタン」という説もある。私はここへも早稲田に行った友人と2-3回訪れた。「丘」と同様に「学生で賑やか」だったが、「丘」がずいぶん明るかったのに比べ、「プランタン」は店内が薄暗く、カップルでひっそりと話すにはよかったかも知れない。この店は何と今日も存続しているらしい。

 作詞をした山上路夫は具体的に参考にした店は無いと言っているし、山上自身も青山学院大学第二部中退ということだが、喘息のため学生生活を断念している。大学にも殆ど行ってはいなかったのだろう。

モデルの店がどこか、確かにそれはどうでもいいことかも知れない。しかし同年代で大学生活を送った人達には、いわば「私にとっての学生街の喫茶店」があるはずだ。私も学生時代に喫茶店によく行ったが、「学生街」となると教養部近くの石橋商店街にあった「ドレミ」がそれに相当する。同時期に大阪大学に通っていた人達なら、同様の回想をする人は多いだろう。この店はその後リニューアルされて「ドレミファ」となり(嘘のような本当の話)、やがて閉店して今は無いようだ。私自身がこの辺りに通っていたのは半世紀も前だから「時は流れた」のも当たり前である。教養部が終わって学部(大阪市内、中之島)に移ると、そこは学生街ではなくビジネス街だった。

「ガロ」を構成していたメンバーは、マークこと堀内護(1949年2月生)、トミーこと日高富明(1950年2月生)、ボーカルこと大野真澄(1949年10月生)の3人で、いずれも私(1949年8月生)と同世代だった。1976年に解散したが、トミーは1986年に事故死し、マークも2014年に胃癌で死亡した。唯一生存しているのがヴォーカルを担当したボーカル(ニックネームは「ヴォーカル」ではない)で、最近も1人で歌っているのをテレビなどで見かける。

 しかし今日の彼の歌は、当時のものと何かが異なる。1973年当時は、彼のハスキーボイスに何とも言えない哀愁があった。聴けば数年前の心のトラウマをほじくり返されて涙が出るほどだった。

 今は年寄りが昔の歌を懐かしみつつ楽しんで歌っているようで、哀愁はない。恐らく彼自身の心の中がそうなのだろうし、聴いている私の心もそうなのかも知れない。

本稿の最後に団塊の世代の愚痴を一言。

「日本をダメにした諸悪の根源が団塊の世代だ」という意見がある。そうかも知れないし、後の世代の人がどのように評価しようが勝手である。 しかし良くも悪くも大阪万博(1970年)の頃以降で日本を動かしてきたのは我々の世代である。

 後の世代の人達に対して皮肉めいたことを敢えて申すと、今後の日本は更に地盤沈下する危険性がある。その諸悪の根源は「ゆとり世代」だと思う。

「白い巨塔」考察:視聴者として、医師として、モデルとされる大阪大学医学部の卒業生として

 山崎豊子原作の「白い巨塔」はどなたも御存知だろう。初版は1963年より「サンデー毎日」に連載された。1966年には田宮二郎の主演で映画化され(以下「田宮映画版」)大ヒットした。その後テレビでは5回もドラマ化され、佐藤慶(1967年)と村上弘明(1990年)も主演したが、1978年の田宮主演(以下「田宮TV版」)、2003年の唐沢寿明主演(以下「唐沢版」)、および2019年の岡田准一主演(以下「岡田版」)の3部が高視聴率を得て、田宮映画版、田宮TV版、唐沢版はスカパーなどで何度も再放送されている。

 映画が公開された頃、私自身は高校1年生であり、医学部志望も確たるものでなかったので、この物語に興味もなかった。大学に入学して初めて小説を読んだ。

 ストーリーの概略は放送を視聴しなくても多くの人が知っているし、今更おもしろい云々を議論する必要もないだろう。

 前半は貧乏な母子家庭に育ち苦学して国立大学を卒業した医師が、天才的な外科医となってやがては教授になるというサクセスストーリーでもあるが、この間の大学教授選に関する権力争い、主人公を取り囲む本学あるいは他学の教授、医局員などの陰謀策動の複雑な絡み合いが描かれている。一般の人は医学部の教授選というのはそのようなものかと思ってしまう。

しかし同様の利権や名誉に絡むバトルは、殆どあらゆる社会で実在する。政治家たる者は社会の福祉向上を議論することが本来の業務だが、実はこのようなバトルこそ仕事内容の大半ではないだろうか。

後半は医療過誤の裁判が主たるテーマである。一般の視聴者は死亡した患者の家族や弁護士にシンパシーを感じるが、医療者なら多くが「こんなことありえない」と感じている。この点に関するつっこみは後述する。

視聴者として

ここでは映画やテレビドラマの配役について、素人である私の偏見に基づいた勝手な意見を述べる。

1)主人公の財前五郎:これは田宮二郎の右に出る者はいない。唐沢寿明も評価は高かったようだが、私の勝手な感想では彼は軽すぎる。言い換えると爽やかすぎる。

岡田准一はよく演じたと思う。彼については低身長なのが財前五郎のイメージと一致しないと言われたが、傲慢さ、本来のハングリー精神、および内に秘めた精神的脆さも申し分なく演じていた。

 私が俳優を選ぶなら、小澤征悦を指名する。あるいは野村萬斎もいい。2人とも高身長で、財前五郎のような癖の強いキャラをうまく演じるだろう。しかし野村萬斎はどちらかというとアウトサイダー的な役の方が似合う。小澤征悦は権力者側の傲慢さを演じさせると実にうまいが、まだ主役を張ったことが少ないのが弱いところか。

2)里見脩二(財前の同級生で内科の助教授:今でいう准教授):生真面目な学究肌で、親友でありながら財前の生き方や診療態度を批判する。医療裁判では患者側の支援をする。結果として出世街道から外れる。

これは田宮TV版の山本學がベストだった。唐沢版では江口洋介、岡田版では松山ケンイチが演じていたが、2人とも原作のイメージからかけ離れている。江口洋介は他人を圧倒する雰囲気があり、生真面目な学究肌とは言えない。松山ケンイチは「デスノート」の印象が強すぎて、何を考えているか分からない不気味なキャラに感じてしまう。

 私は吉岡秀隆を推す。小泉孝太郎もいいかも知れないが、多少爽やかすぎる気もする。

3)花森ケイ子(財前の愛人で高級クラブの経営者。女子医大中退):主人公の愛人だから当然セクシーであるべきだし、財前に対して上から目線の発言もできる。すなわち高い知的レベルの雰囲気も要求される。悪女の要素もある。

田宮TV版での太地喜和子は見事だった。完璧と言って良い。残念ながら早逝したし、生きていても今日では年齢が合わない。

岡田版では沢尻エリカが扮していたが、彼女の演技も及第点と言える。財前に対しての上から目線とか知的雰囲気などが多少もの足らないが、ひとまず80点はやれると思う。ところが放送直後に薬物中毒が発覚し、芸能界から一旦去ることになった。ブルーレイやDVD等のディスク化もできなくなっているが、世間のほとぼりが冷めるのを待たねばならない。

今日の女優で沢尻以外の候補を考えてみよう。米倉涼子は主役を演じるべき人で、悪女らしさにも欠ける。壇蜜は候補となりうるが、イメージ的に少し温和すぎるかも。

多少年齢が高いが、私は杉本彩を推す。

4)東貞蔵(財前の前任の第一外科教授):東都大(言わずと知れた東京大学がモデル)出身で、定年退職を前にして財前のスタンドプレイや自分を小馬鹿にした態度が許せない。基本的に関西が肌に合わない。財前が後任教授になることに公然と反対し、東都大出身の後輩を推す。しかし本質的には学究肌の信頼できる外科医で、悪人ではない。財前も自らが進行癌に罹患した時には、退職していた彼に執刀を依頼する。

田宮映画版では東野英治郎、以後は中村伸郎、石坂浩二などが演じ、岡田版では寺尾聰だった。石坂浩二や寺尾聰も悪くはないが、どちらも根暗という感じに乏しい。

私は堀内正美を推す。真面目な研究者だが、内面のどこかが屈折しているという人物を演じさせると実にうまい。ただし堀内自身の実際の人柄は全く異なる。非常に気さくで優しい気配りのできる真っ直ぐな人である。彼については平素交流が頻繁にある友人ともいうべき人なので、敬称なしで記載するのは非常にはばかれるのだが、ここでは他の役者と同列に議論したいので、やはり敬称を略する。

5)鵜飼良一(第一内科教授):財前を次期教授にするため、いろいろ策動を巡らせる。その理由は己のエゴのためである。財前の味方という形を取ってはいるが、この物語唯一の悪人である。

田宮二郎主演では映画でもテレビドラマでも小沢栄太郎が演じていた。これも完璧だった。唐沢版では伊武雅刀が、岡田版では松重豊が演じていたが、伊武はともかく松重には違和感を覚えた。彼は出世できないアウトサイダーの刑事役がよく似合う。

岡田版で財前又一を演じた小林薫について、この鵜飼良一役として彼を推す。一見紳士的なようで、実は世の中の裏を知り尽くし権謀術数に長けたワルの役がよく似合う。

6)財前又一(財前五郎の舅):脂ぎった産婦人科開業医で、一昔前には多く実在した。「海坊主」と形容される風貌、こてこての大阪弁でまくし立てる押しの強さ、しかしいわゆる策士ではなく金に物を言わせてごり押しをするタイプだが、本質的には善人である。

田宮映画版では石山健二郎という俳優が演じた。ネイティブの関西弁を喋る人ではなかったが、原作のイメージそのものだった。その後は曽我廼家明蝶(田宮TV版)、西田敏行(唐沢版)、小林薫(岡田版)などが演じたが、いずれも原作のイメージとは異なる。小林薫はよく研究して役になりきっていて、さすがに名優だと思ったが、前述のように彼にはむしろ鵜飼良一を演じて欲しかった。

 私が配役を任せられたら迷わず笑福亭鶴瓶を推す。彼以外には考えられない。

7)大河内清作(病理学教授):生真面目そのものの人。世俗的なことには一切妥協しない。その点は里見に共通する人物である。田宮主演の時は映画でもテレビドラマでも加藤嘉が演じた。これほど原作のイメージ通りの俳優もいなかった。「砂の器」での名演技は有名だが、悪役を演じさせても見事であり、名優だった。

岡田版では岸部一徳だったが、ここで再び私の勝手な感想を述べると、彼はワルの雰囲気が隠せない。大河内教授のイメージと完全に一致はしない。

今日の俳優で選ぶなら、私は永瀬正敏か小市慢太郎、あるいはでんでんがいいと思う。でんでんはお笑い芸人出身だが、今やシリアスな演技の方が似合う。この3者の中では経歴からして永瀬がベストか。

8)佐々木庸平(財前の執刀後に死亡した患者):岡田版では柳葉敏郎が演じた。以前は谷幹一(田宮TV版)など、いずれも名優だった。ストーリー全体において重要な役割を占めるので、配役も慎重に吟味されたのが分かる。大阪の個人商店主で、苦労して商売を軌道に乗せた。

ネイティブの関西弁が喋れる人がいい。二枚目は好ましくない。苦労人で結局は無念の死を遂げるという役柄から、暗い表情の似合う人がいい。

以上の条件から、私はラサール石井を推す。他に関西の中年お笑い芸人でシリアスな演技ができそうな人を挙げると、ぼんちおさむ、オール阪神、トミーズ健あたりか。

 以上より、一素人の私個人が勝手に希望した配役だが、ベストとしては

1)財前五郎:小澤征悦

2)里見脩二:吉岡秀隆

3)花森ケイ子:杉本彩

4)東貞蔵:堀内正美

5)鵜飼良一:小林薫

6)財前又一:笑福亭鶴瓶

7)大河内清作:永瀬正敏

8)佐々木庸平:ラサール石井

医師として

 原作者の山崎豊子には失礼だが、医学的観点からこの物語にはどうしようもない矛盾点がある。同様の感想を持つ医療人は多いだろう。

 すなわち、悪性腫瘍(原作では胃の噴門部ガン)の手術を行ったものの転移巣(原作では肺)を見逃していたため、手術をすることで悪い転帰に至ったという。このような展開は医学的にはありえない。悪性腫瘍があれば、転移巣の有無に関わらず原発巣を除去しなければならない。転移巣があるから原発巣を除去してはならないという理屈はない。

 原発巣の術前に転移巣の精査を行うことが必須とはいえない。原作における胸部断層撮影あるいはCT撮影などは、原発巣の除去後に改めて行えばいい。後に転移巣が確認されれば、そちらへの対応(手術、放射線療法など)を行えばいい。もちろん原発巣と転移巣を同時に摘出するということもありうるが、そうしないといけないということはない。

 映画からテレビドラマと何度もリメイクされ原発巣と転移巣の内容、術式も時代に応じて脚色されてきたが、本質に差はない。

 では今後ストーリーを改変するなら、どのような病態あるいは治療手技を取り上げたら矛盾もなくなるだろうか?

 原疾患に対する治療に明らかな過誤がない限り、手術で悪い方向に急変するという病態は考えにくい。例えば消化管手術で縫合の方向を誤ったとか、切離するべき血管を誤って別の重要な血管を切離したのであれば、手術によって状態が悪化するのが当然だが、財前五郎のような天才的外科医がそのような事態を招くなど、人物像の設定に矛盾する。

 身体のどこかに術前診断されていなかった膿瘍があって、術後もドレイナージをせずに抗生物質投与だけで対処して敗血症に至ったというのなら、ストーリーとして成立するかも知れない。

あるいは術前に確診されていなかった大動脈瘤があり、その可能性を危惧して術前にCT検査をする必要性を主張する医師がいたが、その意見を無視して手術を強行し、術中あるいは術直後に大動脈瘤が解離もしくは破裂したというストーリーも医学的に矛盾しない。

 次に現実離れしていると思われたのは、医療裁判についてである。医療裁判で患者もしくは家族が訴える相手は医師個人ではなく、その医師が所属する施設あるいは組織である。告訴された側の施設の医師間で、事例に関する意見がまとまらなければ裁判の前に十分な話し合いを行う。施設として有責か無責か、有責とすれば原告側の主張をどの程度認めるかを結論として出し、裁判ではそれを主張する。もしくは裁判前に原告側代理人と話し合い、和解の折衝をする。この物語のように被告訴施設の別の医師が、主体となる医師を裁判所で責めることなどありえない。ただしここで描かれた上告審のように、退職した旧職員が原告側に立った陳述をすることはありうる。

 さらには多少細かいことだが、大河内教授の裁判所における台詞に違和感を覚えた。

すなわち「です」調ではなく、「‥だ」「‥である」調で通していた。今日いかに世俗から遊離した研究者であっても、研究室や会議、あるいは裁判所であのような口調で発言することはない。リメイクされるなら次作では是非とも常識的な口調による台詞を設定して欲しい。

モデルとされる大阪大学(以下「阪大」)医学部の卒業生として

 ここでは芸能人でもスポーツ選手でもない、偉大な先輩や名誉教授など敬称なしで記述するには恐れ多い人物ばかりを取り上げるが、文章の構成上敢えて敬称を略す。失礼を御容赦いただきたい。

モデルとなった事件は千葉大の中山恒明(後に東京女子医大教授)に関連したものという説もあるが、詳細は不明で、前述のようにストーリー自体が医学的にはありえない。

財前五郎=神前五郎?

 神前(こうさき)五郎は昭和18年の阪大(当時は大阪帝国大学)卒で、第2外科の講師から「白い巨塔」刊行時は大阪府立成人病センター(現:大阪国際がんセンター)の外科部長だった。手術の技倆に優れたのみならず、X線写真の読影など傑出した臨床医だった。彼には「白い巨塔」のような医療トラブルはない。

 私の卒業と同時期(昭和50年)に阪大第2外科の教授となった。私も昭和52年より阪大病院麻酔科に所属し、彼の手術には何度か立ち会った。手術は確かに上手だったが、手際がいいというより丁寧な操作をする人だった。当時としても昔風の外科医で、ゴムでなく綿製の手袋を用いていた。手術が佳境に入るとしばしば手袋を脱いで、素手で消化管を触っていた。これには最初は驚いたが爪は常に短く切ってあり、汚いという感じはしなかった。職人として手触りの微妙な感覚が重要だったのだろう。性格的には財前五郎と大きく異なっていた。口数は比較的少なく、回診などで患者と話をする際にも傲慢な態度ではなかった。

 昭和58年の定年退官後は東京都立駒込病院の院長を務めた。財前五郎は自らが進行ガンになって早逝したが、神前は95才で肺炎のため亡くなった。

 一説には山崎豊子と神前は幼なじみで、小説を書く際に名前の一部を拝借したという噂もあるが、神前は千葉県出身で「幼なじみ」ではないだろう。大阪のどこかで交流があったと思われる。

 

この物語で描かれたような教授選に関わる陰謀策動が、この時代の阪大にあったかどうかは知らない。しかし当時の教授の権限は絶対的なものであり、利権もいろいろ絡んでいたのは事実だろう。小説に書かれた当時も私が在学中から麻酔科に在籍していた頃も、阪大病院は巨大な建物で(私の入学時に教官連中は「大きいだけが取り柄」と自虐的に言っていた。)、東端西端のそれぞれには同一路線の別のバス停があった。堂島川に面した一等地にあり、北新地もロイヤルホテル(現:リーガロイヤルホテル)も徒歩圏内だった。平成5年に現在地の吹田市に移転したが、それ以前から教授等の権力構造も「白い巨塔」の時代とは大いに変わった。

 正直申して、当時は財前五郎や鵜飼教授のような人物も実在していた。私の在学中に内科教授だったA(彼に限っては、ここで実名が出せない!)は政治的手腕に秀でて、特に夜の世界での人脈がすごかった。別名「キタの帝王」だった。鵜飼教授とキャラが重なる。彼の講義は「言語明瞭、意味不明瞭」で、一体何が言いたいのかさっぱり要領を得なかった。しかし弟子には優秀な研究者が多かった。卒業試験は教授自身よりも助教授や講師からいろいろ厳しい質問をされたが、何とか1回でクリアさせてもらった。Aも定年退官後は大病院の院長を務め、96才で亡くなった。私自身は卒業後に彼との接点はなかったが、個人的に悪い印象はない。

 当時阪大第3内科教だった山村雄一も優れた研究者で、後に阪大総長となり、弟子としても岸本忠三を始め高名な研究者を多数育て上げた。政治的手腕にも優れ、夜の世界でもAと同様に人脈が広かった。丸山ワクチンが結局日の目を見なかったのは彼の策動によると言われているが、これの詳細を語ると長くなるのでここでは触れない。彼の講義は実に理路整然として理解しやすく、聴いた後はしばし自分自身も賢くなったように錯覚した。

 他にも第1外科の曲直部寿夫、第2外科の陣内傳之助(神前五郎の前任)、第1病理学の宮地徹など名物教授が揃っていた。今で言う「キャラの濃い」人が多かったが、改めて時代は変わったと感じる。今日では夜の世界を制している教授など、全国的にも皆無だろう。

 しかしそれでは財前五郎のような人物はいなかったのだろうか。「白い巨塔」が世に出た時、財前五郎の性格は第2外科の第2代3代教授(神前五郎は第5代)の岩永仁雄と久留勝の2者を足して2で割ったものと噂された。私はさすがにその人達を知らない。

 北村惣一郎という心臓外科医がいる。国立循環器病センターの名誉総長で後に堺市立医療センター理事長を務めた。昭和40年(1965年)卒だから「白い巨塔」が世に出た頃は大学生だったはずで時系列的にありえないのだが、私は彼こそが財前五郎のモデルではないかと思ってしまう。

 阪大を首席で卒業した秀才で、映画俳優にしてもいい程にハンサムである。眼光は鋭い。我々のような周囲の凡人を圧倒するが、人を引きつけるオーラもある。財前五郎のように愛人がいたかどうかは知らないが、女性にもてた。

彼の書いた論文の殆どは複雑な数式が羅列してあり、これを理解できた医学者が何人いたのだろうかと思う。アメリカで長年臨床に従事し、その間も多くの論文を発表した。手術成績にも優れ、神前五郎と同様に、丁寧で慎重な手術をしていた。阪大の講師から奈良県立医大の教授になり、そこでの手術実績も素晴らしかった。その後国立循環器病センターの院長から総長になった。

 性格的には癖の強い人で敵も多かったが、他人に対しては、その人を敵に回すと損するか否かを瞬時に判断していた。目上の人に対する礼節は心得ていたが、「どんくさい」部下に対してのパワハラは凄まじかった。財前五郎と同様に出世欲は強かったと思う。

 医療裁判に至った事件の噂は聞かないし、早逝もせず現在80才前だと思うが健在である。私は「白い巨塔」のストーリーを見る毎に彼を思い出す。

(2020年 神戸市産婦人科医会報に投稿)

遠井吾郎先輩(元阪神タイガース)の思い出

 最初にお断りしておくが、文章を書く上でスポーツ選手(プロ、アマ問わず)と芸能人については、敬称を略するのが通例なので、本稿もそれに従う。

 遠井吾郎は私の出身校(山口県立柳井高校)の10年先輩である。昔のプロ野球を知る人は覚えているだろう。小山、村山、バッキーの時代で一塁を守り、4番もしくは5番を打っていた。

 王貞治と同年齢で、高校時代は昭和32年の選抜に出場した。当然4番だったが投手もしていた。準々決勝で王の早実と当たり、4-0で敗れた。この試合で遠井は投手の王から3三振を喫したが、遠井も投手として王から三振を奪っている。

打撃は天才的にうまく、全盛期には打率2位でシーズンを終えたこともある(昭和42年、その年の首位打者は長嶋)。打つのはうまいが守備は下手で、鈍足も有名だった。

 彼の名誉のために少し書き添えるが、彼は鈍そうに見えて被死球が極めて少ない。通算17個/5837打席(0.29%)だった。因みに長嶋は43個/9201打席(0.47%)、王は114個/11866打席(0.96%)、田淵は128個/6875打席(1.86%)だった(被死球の日本記録は、清原の196個/9428打席、2.08%)。但し全盛期にはよく狙われたと言っていた。

 あまり知られていないが、オールスターでランニングホームランを打ったことがあり、私はよく覚えていた。本人にその話をすると、実に嬉しそうにしていた。私が彼を初めてテレビで見た時は、入団後1-2年目だったと思うが、内野安打で出塁した。

野球界を引退した後は大阪の北新地で「ゴロー」というスナックをしていたので、私も何度となく飲みに行って昔話を聞かせてもらった。

 「大相撲阪神部屋」と揶揄されていた頃の1人で、巨漢で腹も出ていたが、引退後も男前でダンディーだったので、女性によくもてた。当時は2人目の夫人が一緒に店に出ていたが、独身時代も2回の結婚後も、女性遍歴はすさまじかったと聞く。

何よりも人柄が温厚で、非常に優しい人だった。これもよくもてた大きな理由だろうが、私達男性客や一般人に対しても、すごく気配りをする人だった。「仏のゴロー」と呼ばれていたが、実は彼はこのニックネームを嫌っていて、「自分では鬼のゴローだと思っている。」と言っていた。

 彼のスナックで、しばしば著名な野球人を見かけた。田淵とは直接話をして、サイン入り色紙を書いてもらい、並んで写真に写ってもらった。余談になるが、田淵自身も(意外なことに)少しも威張ったところがなく、実に気さくに話をしてくれた。少しやんちゃな坊ちゃんが、そのまま大人になったような雰囲気も多少はあったが、その優しさと、私達に対する気配りには本当に驚いた。

 話題を遠井に戻して、彼の酒豪は有名だった。二日酔いで試合に出て、ヒットを打ったというエピソードは多数ある。しかし問題は超が付くほどのヘビースモーカーで、1日に100本以上は吸っていただろう。私にも「先生、タバコを減らす何かいい方法はないものかねえ。」と言っていたが、実際には死ぬまで減らす気も止める気もなかったのだと思う。

北新地の店を閉める直前には、肺気腫が進行して苦しそうにしていたと聞く。やがて気胸を発症して、大阪厚生年金病院(現JCHO大阪病院)に緊急入院した。呼吸困難が一段落すると、直ちに喫煙を再開していて、これには阪大の1年先輩の呼吸器外科医も呆れていた。

 さすがにその頃には死の予感があったのだろう。故郷で死にたいと言って柳井市に帰り、やはり「ゴロー」と言うスナックを開いていたが、店にはあまり顔を出していなかったらしい。私も帰省時に1度だけその店を訪れた。それが彼を見た最後だったが、表情は冴えなかったし、夜の9時過ぎには帰宅してしまった。

 やがて肺癌を発症した。いよいよ重症化して、最後は東京の病院に運ばれた。これを仕切ったのが、ものまね芸人の松村邦洋である。松村が遠井といつ頃から交流していたのかは知らないが、当時の松村は「遠井吾郎命」という感じだった。

 遠井は2005年に65才で亡くなった。松村らと一緒に遠井の最期を看取った1人に、実は私の高校の同級生がいる。詳しくは書けないが、その人は遠井の死後も松村と交流があり、同窓会の時に松村に電話をして、私を紹介してくれた。以後私も松村と交流させていただいている。松村のことも話せば長くなるので、別の機会に紹介したい。一言だけ述べると、彼もすごい人である。

 遠井吾郎先輩は、野球と酒とタバコと女をこよなく愛し、山口県人の心をいつまでも忘れない人だった。話し言葉も最後まで、やはり頑固なまでに山口弁だった。

神戸市産婦人科医会会報、2019年版に掲載。一部加筆訂正。

ナンバーワンとオンリーワン

当院にもホームページがあり、施設紹介のパンフレットもある。
そのいずれにも、施設紹介の欄で「規模的なナンバーワンでなくても、他院にない充実した医療サービスを誇るソフト面でオンリーワンなクリニックを目指しています。」と記している。
今日これを読むと、殆どの方が「何だ。歌の文句のパクリか。」と思われるだろう。
ところがちょっと待っていただきたい。実は違うのである。

施設紹介のパンフレットは開業翌年の平成11年11月より、外来の受付窓口に置いているし、ホームページ(旧)を公開し始めたのは平成14年12月であった。
一方、SMAPが歌った「世界に一つだけの花」は、大ブレークしたのが平成15年だった。
Wikipediaによると、作詞作曲が槇原敬之で、平成14年7月24日に発売されたSMAPのアルバムに収録してあり、その直前に書き上げたとのこと。シングル盤の発売は平成15年3月であった。すなわち、私が書いて世に出した方が早いのである。
確かにこの曲を最初に聴いた時には驚いた。当時大学生だった私の子供達も、「パクられたな。」などと言っていた。そう思ってしまうのも無理はないだろう。
しかし私としては、作詞者に抗議する気は毛頭ない。
その理由は、何を隠そう実は私こそ、他の出典からパクリをしていたからである。

それは平成10年7月にダイヤモンド社から発行された「お客を選べ!!」という本で、著者は緒方知行氏、副題として「ナンバーワン戦略からオンリーワン戦略へ」と、表紙にも記載されている。
内容としては経営戦略に関するもので、私も開業時には起業者としての自覚というか、今までこの方面に全く無知であったことの焦りから、この類いの本はよく読んでいた。この本で特に強調されているのは、「プランタン銀座」の商法である。
バブル崩壊後、日本の百貨店業界は厳しい不況の中で閉塞されてきた。ところがこうした中で、奇跡的とも言えるほど高い伸びを実現していたのがプランタン銀座だった。
その経営戦略、商法の特徴は、千客万来という百貨店のそれまでの常識を破って、女性だけ、それも18歳から35歳までの若い世代をターゲットにして、そこに全エネルギーを集中するというものだった。
社長は一貫して幹部や社員たちにこう言い続けた。「規模は小さいのだからナンバーワンにならなくてもいい。しかしオンリーワンになろうよ。つまりはどこにもない百貨店、オンリーワンのデパートを目指そうよ。それにはオンリーワンの商品作りをしていこうよ。それがうまくいけば結果としてナンバーワンアイテムがつくれる。」
当時この文章を読んで、私自身もずいぶん感銘を覚え、「そうか、確かに今更ナンバーワンの医療施設なんて作れるはずはないけど、何かオンリーワンのものなら可能性があるかも知れない。」との思いから、当院のパンフレットとホームパージを作ったものだった。
(蛇足だが、プランタン銀座は、皮肉にもこの本が出版された直後より経営不振に陥り、結局は平成28年末に閉店となった。残念!)

実は全く同じ時期(平成10年7月)に発行された「オンリーワン」という本もある。
これはレゾナンス出版という会社から刊行されたもので、著者はマキノ正幸氏と島田晴雄氏である。マキノ氏とは、安室奈美恵やSPEEDを生み出した沖縄アクターズスクールの社長で、本書の主題は「これからの日本には、好きなことを徹底的にやることが幸せにつながるという教育が必要だ。」というものである。そうでないとクリエイティビティは生まれないという。
マキノ氏は述べている。「子供たちというのは(略)何をやるにもまず心を開いて自分の感性を徹底的に磨いていって、何か得意なものに対して自分が思い詰めていったときに、どんな発想が起こってくるかを経験することによって、どんな方向にもいくことができる。ナンバーワンではないが、自分だけのオンリーワンの世界が開けるはずです。」

話題をSMAPの曲に戻す。槇原敬之は「ナンバーワンとオンリーワン」という言葉について、「天上天下唯我独尊」という仏教の教えが念頭にあってひらめいたと言っているらしい。
しかし下衆の勘ぐりかも知れないが、これだけほぼ同時期に、複数の人間が同じ台詞を述べているという事実から、どうもそのルーツは更に別なところにあって、パクリとは言わないまでも各人の潜在意識にあったのではないだろうか。

改めて言います。当院のホームページおよびパンフレットにある「ナンバーワンとオンリーワン」の記述はパクリです。しかし、SMAPの歌からパクったものではありません。
「世界に一つだけの花」より、私の方が先に世に出していました。
(2017年、神戸市産婦人科医会報に掲載。一部加筆訂正。)

他人を罵倒する職業、罵倒される職業

いきなり何の話かと思われるだろうが、他人を罵倒するのが仕事という職種は案外多い。今日はいかに他人を罵倒してやろうか、毎日そればかり考えて生きている人たちである。
 例を挙げよう。

まずは政治家。
 連日政敵の罵倒ばかりしている。
 議会において罵倒するのは、主としてマイノリティーの方であり、マジョリティーが罵倒される。
総理大臣を始め、政権の中枢にいる人たちは、議会の場で表立っては他人を罵倒できない。殆ど罵倒されるばかりの毎日である。とはいえ、たまに本音が出て、相手を小馬鹿にしたような発言をすることもある。
野党の政治家は、今日はどのようにして与党もしくは政府を罵倒しようか、その材料を集める。特にテレビ中継のある日などは、強い口調で、国民の支持を少しでも自らに得られるよう、政権与党をいかに侮辱するか、作戦を考える。
 しかしその野党の政治家も、立場が変わって、例えば党大会に赴くと、地方の党員など下部組織の連中からひどい罵倒を受ける。
 与党か野党かに関係なく、街頭演説などでは聴衆から罵倒される。
 政権の中枢にいる政治家は罵倒されるばかりと述べたが、それは表面上の話で、実は彼らも、秘書とか官僚連中を常日頃罵倒している。討論会の場では、与党も野党議員を口汚く罵倒する。
 大阪市の橋下市長は、市長もしくは知事という立場にいながら、議会でも野党を、取材現場ではマスコミをも罵倒しているようだが、彼は例外的と言える。しかし彼に関しては、後述するように、法律家という本業がなせる性(さが)なのだろう。
 政治家ではないが、むしろ一般大衆こそ、徒党を組むと攻撃の対象を激しく罵倒する。市民団体の連中は、常に他人を罵倒している。対象は政治家のみならず、同じ市民団体で意見を異にする会派も攻撃の的となり、時にはお互いに誹謗中傷合戦をしている。

次に法律家。
 検事は勿論、弁護士という職種も、他人を罵倒しなければならない。
 民事裁判においても、原告側代理人の弁護士は、およそ被告訴人の人権を無視するかのごとくの口調で罵倒するのが通常である。
 まずは最初に届く訴状。これは告訴された経験のない者にとって衝撃が半端ではない。
 いわく「〇〇万円を支払え」と述べてある。「‥を支払うこと」とかいう生やさしいものではない。
 さらには平素の態度等、実際に見てもいない者が、よくもここまで書けるものだと思うほど、相手側の人間性をも罵倒してくる。
 しかも多くの場合は、原告側本人が感じたものではなく、単なるでっち上げである。すなわち、「この被告訴人は、こんなに態度も悪い奴なのだ」という先入観を裁判官に与えようという作為によるものである。
 政治家で橋下氏は、本来は法律家で他人の罵倒ばかりして来たので、罵倒されっぱなしという状況には耐えられないのだろう。彼にとっては攻撃こそ防御というわけで、この辺りが総理大臣など、根っからの政治家とは異なる。
 政治家や法律家という人種は、常に誰かを罵倒していないと気が済まないのではなかろうか。

次にマスコミ。
 マスコミとは本来、事実を正確に一般大衆に伝えることが、その役割であるべきだ。ところが現状は違う。
 社説などの論評こそ、自らの存在理由と自覚しているようだが、他人を罵倒することにかけては政治家や法律家に負けない。対象は主として政治家だが、芸能人やスポーツ選手とか、同じマスコミの他社であったりする。時には我々医師をも罵倒する。

立場を変えて、今度は罵倒される職業を挙げてみよう。
 医師はマスコミに罵倒されると述べたが、マスコミ以外にも、法律家や患者からも罵倒されることは稀ではない。しかし医師の方は、余程のことがない限り、患者を罵倒してはならない。
 しかしこの医師と患者との関係、一方が罵倒され他方が罵倒するという図式は、殆どの職業で同様の状況がある。商店(コンビニでも量販店でも)と顧客、駅員もしくは運転手と乗客についてもしばしば、前者が罵倒され後者が罵倒している。
 教師も昔は生徒を罵倒し、それが許されていた。ところが今日状況が大いに変化し、いわゆるモンスター・ペアレントに教師が罵倒されている。
 同列に並べるのも問題があるだろうが、警察官と容疑者、刑務官と受刑者の関係も、いわゆる人権派弁護士の活躍により、おかしなことになりつつある。

学者はどうだろうか?
 同じ分野の研究者同士で、学会や時には同じ研究室内でも、バトルをしていることがある。罵倒合戦が最も激しいのは、考古学の分野だと思う。
 しかし一般に研究者というのは、世間からバッシングを受けることが少ない。ということは、たまに罵倒される状況になると、精神的に実に脆い。いい例が理研の研究者達である。

再び医師の話題に戻す。ここでは医療機関という組織内での人間関係について考察する。
 病院も特に規模が大きくなればなるほど、職員同士がしばしば罵倒し合っている。最も罵倒されやすいのは外科医である。
 罵倒まではしないまでも、X線技師や検査技師、あるいは薬剤師が医師に嫌みを言うことは多い。
 外科医は特に手術が下手だと見なされると、主として麻酔科医、あるいは内科医にも罵倒される。
 産婦人科医も非常に罵倒されやすい。産婦人科医を標的にするのは、麻酔科医や内科医に留まらず、小児科医と泌尿器科医に多い。
 私も麻酔科医時代の13年間、しばしば外科医や産婦人科医を罵倒してきた。罵倒したくてしたのではない。実情として、そうしないと生きていけなかったからである。
 自分で言うのもおかしいが、麻酔科医を辞める直前の2-3年間は、心臓外科医と凄まじい罵倒合戦をした。
 しかしここで改めて考えていただきたい。
 罵倒は、する側とされる側では、どちらが健全だろうか?
 政治家、特に野党議員のように、連日他人の挙げ足を取り、いかに罵倒してやろうか、そればかり考えていて精神は勿論、身体も健康であるはずがない。
 私も麻酔科医時代のことを振り返ると、当時の心は相当に荒んでいたと思う。
 罵倒はされてもいいと思う。時には明らかないいがかりで罵倒されることもあるだろう。私も昔の悪い癖で、今でも言われのない罵倒をされると、思わず倍返しをしたくなることがあり、これではいかんと思い留まっている。
 しかし、他人を罵倒することばかり考えるより、世間一般(我々にとってその対象は主として患者だが)のお役に立つように心懸ける方が、こちらも余程幸せである。

結論を述べよう。
 私は高校生時代まで、ディベイトが大好きだった。将来は法律家になりたいと思っていた。
 しかし、看護師だった母や助産師(当時は「産婆」)だった祖母に説得され、医師の道を選んだ。そして今日、他人を罵倒することばかり考えている法律家を見るにつけ、医師の道を選んで本当によかったと思うし、  政治家やマスコミ関係者などを羨ましいとは全く思わない。
 同様の理由で、麻酔科医を辞めて本当に正解だったと思っている。

(2015年 神戸市産婦人科医会報に掲載、一部削除および加筆修正)

メルセデスベンツ泣き笑い記

メルセデスベンツSL500に10年余り乗った。走行距離は5万キロ少々で、それほど多く乗ってはいない。1台しか知らないので、これでベンツの全てを語るというのは、メーカーや代理店に対して失礼な話ではある。ここは個人的独断および偏見と解釈していただいて結構だが、私のベンツ体験記を紹介したい。

1,ヤナセの営業マンは優秀である。
 ヤナセの営業所に行くと、大抵は大きな声を出しているおっさんがいる。別に怒っているわけではない。自己顕示欲が強いのだろう。同一人物ではない。そういう人種が集まるのである。このような客にも、営業マンは実に丁寧に応対する。確かに、こちらの要望や質問への対応も早い。

2,燃費は劣悪。
 短距離の使用が中心だったので、ある程度は仕方がないが、リッター6キロ位。5キロの時も珍しくはなかった。高速をできるだけ一定の速度とするよう注意して、瞬間燃費は10キロ程度だった。

3,とにかく強面(こわもて)は効いた。
 前後の車は必要以上と思われる位に車間距離をとる。少々強引でも割り込みは容易にできる。信号待ちで青になって、しばらくボウッとしていても、後からクラクションをうるさく鳴らされることはない。

4,加速感やエンジン音は快適
 私は飛ばし屋ではない。ここ20年以上は無事故無検挙である。しかしたまには必要に応じて無茶な運転もする。こういう時のスピード感、加速時の背中に及ぶGは実に快適で満足できるものだった。音楽を楽しむのは困難だが、いわゆる「ベンツサウンド」は楽しめた。とは言っても別にうるさいというほどではない。

5,燃費以外にも、維持費は半端でない。
 車検の度に数十万円請求される。それも車検の回数が重なるにつれて増額していく。ヤナセの修理工場は、とにかく物品を交換したがると思う。年数が経っているという理由だけで、現時点では特に性能に問題がないと思われても交換を勧める。
 あえて悪口を述べると、私はヤナセの「修理工場」は、実は「交換工場」だと思う。最後の、すなわち4回目の車検では、夕方に工場から電話があり、「何々と何々は交換した方がいいと思います。何々と何々は交換しなくても車検は通るんですが、近い内にダメになると思われ、やはり交換した方がいいと思います。」と早口で言われ、最後に「よろしいですか?」と聞かれたので「わかりました。」と答えて電話をいったん切った。実は外来診察中だったが、やはり納得できないことが多いので、直ちにこちらからかけ直すと「営業時間外」とのアナウンスが流れて応答がない。この車検では結局50万円近くを請求された。さすがにこの時点で、次回の車検はもう受けられないと思った。

6,やはり故障は多い。それも苦笑してしまうような内容の故障が。
 エンジンやサスペンションからのオイル漏れはしょっちゅうだった。ギアがパーキングから全く動かなくなったことが一度。運搬に来てくれたJAF社員いわく「ああ、この車はこれが多いんです」。それをヤナセ社員に言うと、一瞬絶句したが特に強く否定もしなかった。
 電動式のルーフで、オープンカーにできるものだったが、開かなくなったことが一度。それはまだ許せるとして、開いたルーフが閉じなくなったこともあった。「雨が降り始めたらえらいことだ。」と焦りながらヤナセに運んだ。
 ギアの故障もルーフ作動の故障も、コンピューターの問題ということで交換を要し、その度に十数万円を請求された。
 以上はまだ「そんなこともあるかもな」という程度だが、ある日車から降りようとして、ドアの内側のフックを引くと、ポキンと音がして、フックが下にだらりと垂れ下がった状態となり、内側からドアを開けることが不可能となった。「何じゃこれは」と呆れるやら怒りを感じるやらでヤナセに持って行くと、フックからドアに至るワイヤーがあり、それが断裂したとのこと。安物の軽四でもこんな故障はないのでは?
 最後につい先日のこと。走り始めると、減速時に後方で「ドスンドスン」と、すごい音と振動がするようになった。当初はトランク内に入っている物品が動いているのかと、トランクを調べたが何も入っていない。再びヤナセに持って行った。結論として、ガソリンタンク内にはガソリンがあまり動かないようにするための隔壁があり、その一つの固定が外れて、振動の度に他の隔壁にぶつかっていたとのこと。対処法としては、例によってガソリンタンク自体の交換が必要だった。タンクの費用に数十万円、交換の作業費に8万円を請求された。
 この時点で私の気持ちは完全に切れてしまい、他社の車に買い換える決心をした。買い換えが決まってから新しい車が来るまで、再び信じられないような故障が起こるのではないかと冷や汗ものであった。
 下取り価格は150万円で、これを200万円程度で購入する人がいるかも知れない。しかし買ったが最後、維持費に年間少なくとも50万円は必要となる。友人や親戚に売る気持ちは毛頭起こらなかった。
 このような話を友人などに話すと、殆どの人は「それは車の当たりが悪かったのだ。」と言われる。しかし本当にそうだろうか?
 ヤナセの社員(整備担当)に私は言ったことがある。「それにしても故障が多いですね」と。その時の彼の返事はこうだった。
「確かに故障は多いです。」

 すなわち、ヤナセの社員自身も実態を知っているのである。

最近よく思うことを、徒然なるままに

1、座右の銘
人は自分が思うような人になる。すなわち、自分はダメだと思ったらダメな人間になる。
金持ちになりたいと思うなら、そうなるための努力も必要だが、そう思わなければ金持ちにはなれない。
私自身がどうなりたいと思っているのか、今日66才で人生残り僅かなので、あまり大それたことは無理だろうが、秘密です。

他人様の役に立てているから、生きる資格も情熱も保てる。
「他人」というのは、社会全体や一般大衆はもちろん、小グループ、家族であっても愛人であっても、極端にいえば反社会的勢力であってもいい。
親を思う子が居るなら、その子のために生きているだけでも、十分に生きる資格がある。
「ひきこもり」で、ゲームばかりして毎日を過ごす青年が多いようだが、「自衛隊にでも入れ」と言いたい。
誰の役にも立てなくなったら、生きる情熱はなくなるし資格もない。
しかし身勝手ながら、自分がそうなっても死にたいとは思わない。 見ることも聞くこともできなくなって、人間として得ることのできる最終的かつ基本的な快楽、すなわち食事をすることもできなくなったら、死にたいと思う。

不幸な状況を確実に救ってくれる方法は、他人の不幸を知ることである(麻薬と同じで、一時的に快感を得られる)。しかし、それに味を占めて繰り返し追い求めていると(麻薬中毒と同じになると)、人間性の価値が地に落ちる。他人からも相手にされなくなる(これも麻薬中毒患者と同様)。不幸な状況はやはり、自分自身で解決する努力をするべきである。

2、好きなもの
日本人の最も好きな食べ物は、カレーライスだと思う。

最高におもしろいスポーツは野球だと思う。

最高におもしろいゲームは麻雀だと思う。

最高におもしろい映画は「仁義なき戦い」だと思う。

 最高の唱歌は「翼をください」だと思う。
しかし日本人の心に最も響く音楽は演歌だろう。

八代亜紀の演歌歌唱力はすごい。
「雨の慕情」はいい歌だが、パクリがひどい。曲の冒頭を、「屋根の上のバイオリン弾き」の「サンライズ・サンセット」と聴き比べられたい。
多くの演歌歌手の出発点は民謡だが、彼女の場合はモダン・ジャズらしい。

モダン・ジャズも心に響く。
史上最高のジャズメンはキャノンボール・アダレイだと思う。「チャーリー・パーカーの再来」とか言われたらしいが、キャノンボールの方が遙かに上手い。
マイリス・デーヴィスが、どうして彼のことをあまり評価しないのか、理解できない。この2人のコラボは最高である。(世界中で最も売れているジャズ・アルバムは「サムシン・エルス」)

自動車も好きだが、ベンツ(SL500)を買ったのは人生最高の無駄遣いだった。ベンツは毒である。しかし、毒というのは美味しいもので、ベンツも美味しかった。(毒婦も美味しい?)(脚注1)

写真などで確認できる限り、過去最高の美人はエリザベス・テーラーだと思う。
でも個人的には、マリリン・モンローの方が好き。
日本人なら、過去最高の美人は京マチ子だと思う。
今日の日本の女優で、最も輝いているのは米倉涼子だと思う。(脚注2)

3、団塊の世代と世の流行
この半世紀、世の中は我々団塊の世代を中心に動いてきた。

主潮たる思想も然り。
全共闘時代には、世の中全体が左翼だった。
今日還暦を過ぎ、「あの当時、何て馬鹿なことを考えていたのか。」と思うようになり、世の中では右翼的な主張が歓迎される。

自動車の流行も然り。
ホンダN3が出た頃は、学生のアルバイトに加えて、親に多少無理を言えば何とか買えるような自動車が主流。1970年代前半、すなわち20才代前半ではスポーツカーが主流だった。結婚してちょっと落ち着いて、家を買うためにも節約しなくちゃと思う頃は、カローラとかファミリアなどの、おとなしめの車に乗った。子供が2-3人出来て、ファミリーでちょっとした旅行をしたいと思っていた1980年代は、いわゆるミニバンがもてはやされた。その後、中間管理職になってセダンにも乗ったが、定年退職後のこれからは、衝突回避の自動ブレーキとか、車庫入れや縦列駐車が容易なアラウンドビューが装備された、容易に安全に運転できる車が中心になるはずだ。

スマホは、あまり流行らないと思う。我々の世代以上の者にとっては、実に使いづらい。
(脚注3)

4、我が母校、柳井高校の野球部について
 弱くなった。周辺の他校が強くなったのかも知れないが、失礼ながら、今の指導者では勝てないのでは?(脚注4)
 
最後に甲子園に出た時の監督は、同級生(高19回卒)の角(すみ)君だが、1回戦で負けて地元の後援者にずいぶん怒られた。
 しかし、その時の相手校の投手が誰だったか御存知だろうか?何を隠そうあの大魔神こと佐々木主浩である。それを思うと、よくあそこまで善戦したものだ。
 彼が監督だったから1回戦で負けたのではなく、彼が監督だったから、投手のカーブ以外に取り柄のなかった弱いチームを、甲子園に導いたのである。
あくまで私の個人的意見だが、彼がもう一度監督にならない限り、甲子園に行く可能性は殆どない(脚注4)。
ただし、彼の熱血指導は、現代の高校生には受け入れにくい面があるかも知れない。校長先生におかれては、多少の行き過ぎには目をつぶる、もしくは庇護する覚悟をして欲しい。

5、体罰問題について
 大阪府の高校バスケットボール部で、顧問のコーチが生徒に体罰をし、その体罰を受けた生徒が自殺したというニュースがあって以来、「体罰はいかん」という世論が主流となっている。しかしその世論に違和感がある。
 
最近では、天理大学柔道部の体罰が問題化したが、格闘技での体罰なんて当たり前ではないのだろうか?しかも天理大学柔道部は国内でも最高峰のレベルである。
 
もっと違和感を覚えたというか、滑稽にすら感じたのは、プロレス道場で「リンチまがいの」体罰があり、それをマスコミにチクった選手がいる。
プロレスなんて、喧嘩のショーではないか。プロのショーである限り、本当に喧嘩が強くなければ一流にはなれないし、強くなりたいのなら、毎日喧嘩の練習をしないといけない。その訓練なら当然「リンチまがい」のしごきもあり得るはずだ。それをマスコミにチクってどうするのだろう。

そのうち、大相撲やプロボクシング、プロ空手なんかでも、「体罰」が騒がれるかも。もっとも大相撲では、体罰(というよりリンチ)で死亡した事件があり、これはさすがに問題視された。
まあ、私とは全く無縁の世界のことではあるが。

6、医療、特に産科医療について
医療とは基本的に、自然の摂理に反する行為である。

まずは癌の治療がそうだ。自然に出来た腫瘍を、無理矢理切り取り、放射線や抗癌剤で細胞を殺す。
高血圧の治療も、加齢によって自然に硬く狭くなった血管を、無理矢理に開いたり、血管抵抗に負けまいとして頑張っている心臓の、収縮力を押さえ込む。
高脂血症や骨粗鬆症の治療も同様。感染症で解熱薬を用いるのも、自然の摂理に大いに反している。
アンチエイジングや美容形成など、自然の摂理に逆らう最たるもの。更年期障害に対するホルモン補充療法も、似たようなものである。

ところが産科医療に限っては(小児科医療も似たところがあるが)、少し事情が異なる。出産というのは余計な手を加えず、自然の経過に任せた方がいいことが多い。
しかし、全ての出産がそうかと言えば違う。自然の摂理に反するべき状況も多々ある。
陣痛を薬で強めないといけないこともあるし、当然感じるべき痛みを、麻酔で和らげないといけないこともある。腹を切って、無理矢理赤ちゃんを出すことが必要なこともある。
自然の摂理に任せるべきか、あるいはそれに逆らうべきかを判断するのが、産科医の役割である。
自然の摂理に逆らうのが、悪いとは思わない。癌はやはり治療しないといけない。
不妊治療としての体外受精も、大いに自然の摂理に反しているが、それを必要とする夫婦は数多い。

出産とは1種の排泄行為である。すなわち、お祭りではない。
本能剥き出しになるものだから、他人に見せるものではない。


脚注1) その後はレクサスGSにしばらく乗った。この車は静かだし、乗り心地はいいし、ハイブリッドなので燃費もいい。スピードも結構出るし、加速はベンツよりいい位だ。毒は全くなくて、文句のつけようがない。しかし、何かおもしろくないのである。優等生過ぎるためだろう。
2015年12月の今日、レクサスは長男に譲り、主としてポルシェ・ケイマンに乗っている。この車は実に美味しいが、毒だとも思えない。ただし、乗り心地は決して良くないし、エンジン音はうるさいので、やはり毒気はあるかも。
何故こういう車が美味しいのか?自動車よりオートバイが好きな人なら、その気持ちが理解できるだろう。

脚注2) これを書いた当時はそう思っていたが、結婚してから輝きが少なくなったと感じるのは私だけだろうか? 
大きなお世話だが、対象が芸能人なので、敢えて私の個人的主観を好き勝手に書かせていただく。早く離婚した方がいい。

脚3) これを書いた当時はそう思っていたが、今日のスマホ全盛を見ると、この予測は明らかに間違っていた。すみません。
しかし、「機能が多すぎて使い切れない」「字が小さくて読みづらい」と言う人は多い。

脚注4) 2015年の今日、現監督の舛永先生には、大いに期待しております。

(2013年10月、柳井高等学校同窓会近畿支部会報に掲載、一部加筆訂正)

「仁義なき戦い」の真実

未曾有の大災害に遭いながら、被災者の殆どが冷静に行動していることで、世界中が驚嘆していると聞く。ところが一方では、国をまとめるリーダーが不在、もしくは不適格で、その点は嘲笑されているらしい。
 外国の人がどのように感じようが、それらの人々の勝手でもあるが、いずれも正しい指摘ではあろう。
 確かに現首相(注:2011年当時)も、原発問題で揺れる東京電力の社長も、規模相応のリーダーたる資質に欠けているのではなかろうか。
 古くより「自軍の将が馬鹿だと、敵軍より恐い。」と言われる。これは事実だと思う。
 飯干晃一著の「仁義なき戦い」は私の愛読書で、映画化もされて、5本のシリーズ作は大ヒットを記録した。私は今でも、これほど面白い映画はないと思っている。
 内容はいわゆる「やくざ物」だが、史実が元になっているので、高倉健主演の映画のような美化された英雄は出て来ない。
 原作の元になったのは、呉市の元組長である美能幸三氏の獄中手記であった。この手記は、唐突に終わっている。
「つまらん連中が上に立ったから、下の者が苦労し、流血を重ねたのである。」
 実は、この最後のたった一言こそが、美能氏の手記および本著作、映画の根底に流れる主テーマなのである。
「リーダーがアホだと、下の者が不幸になる。」
 すなわち帝王学を逆説的に説いたものと考えればわかりやすい。当たり前と言ってしまえば、その通りだが、極道や政治家、あるいは大会社の経営者に限らず、我々医者の世界も含めて、日常心すべき重要なメッセージだろう。
 社長が「体調が悪いから」と避難入院をして、一切矢面に立たないようにしていた東京電力。そこの社員は今日実に不幸だと思う。
 国という単位で考えても、総理大臣の器によっては、全国民が不幸になりかねない。
 日本という国は昔から、独裁者も出ないが、英雄も出にくい。国民性が控えめなためか、はたまた足の引っ張り合いが好きなためか、多分その両方によるのだろう。
 菅直人という人自身は、決して無能な人とは思えない。しかし、例えば小泉純一郎とか、少し古いが田中角栄などに比べると、カリスマ性もなく、器が小さいように感じてしまう。
 この2人が現首相と決定的に違うのは、いずれも有能な参謀を従えていたということである。名宰相には必ず名参謀がいる。ところが現首相には、その影が見えない。
 私はもちろん政治家ではないし、評論家でもないが、「仁義なき戦い」は、日本国民全体に近い将来訪れる不幸な事態を、予言しているように思われて仕方がない。
 この際言いたいことを更に付け加えるなら、我が医師会も、エゴむき出しの覇権争いなどをしていてはいけない。「仁義なき戦い」は、「つまらん」リーダーとは低次元のエゴをむき出しにする者と教えている。
 私自身も、小さい診療所のリーダーである。及ばずながら、自分自身に対する戒めの言葉ともしている。

(2011年5月記)