遠井吾郎先輩(元阪神タイガース)の思い出

 最初にお断りしておくが、文章を書く上でスポーツ選手(プロ、アマ問わず)と芸能人については、敬称を略するのが通例なので、本稿もそれに従う。

 遠井吾郎は私の出身校(山口県立柳井高校)の10年先輩である。昔のプロ野球を知る人は覚えているだろう。小山、村山、バッキーの時代で一塁を守り、4番もしくは5番を打っていた。

 王貞治と同年齢で、高校時代は昭和32年の選抜に出場した。当然4番だったが投手もしていた。準々決勝で王の早実と当たり、4-0で敗れた。この試合で遠井は投手の王から3三振を喫したが、遠井も投手として王から三振を奪っている。

打撃は天才的にうまく、全盛期には打率2位でシーズンを終えたこともある(昭和42年、その年の首位打者は長嶋)。打つのはうまいが守備は下手で、鈍足も有名だった。

 彼の名誉のために少し書き添えるが、彼は鈍そうに見えて被死球が極めて少ない。通算17個/5837打席(0.29%)だった。因みに長嶋は43個/9201打席(0.47%)、王は114個/11866打席(0.96%)、田淵は128個/6875打席(1.86%)だった(被死球の日本記録は、清原の196個/9428打席、2.08%)。但し全盛期にはよく狙われたと言っていた。

 あまり知られていないが、オールスターでランニングホームランを打ったことがあり、私はよく覚えていた。本人にその話をすると、実に嬉しそうにしていた。私が彼を初めてテレビで見た時は、入団後1-2年目だったと思うが、内野安打で出塁した。

野球界を引退した後は大阪の北新地で「ゴロー」というスナックをしていたので、私も何度となく飲みに行って昔話を聞かせてもらった。

 「大相撲阪神部屋」と揶揄されていた頃の1人で、巨漢で腹も出ていたが、引退後も男前でダンディーだったので、女性によくもてた。当時は2人目の夫人が一緒に店に出ていたが、独身時代も2回の結婚後も、女性遍歴はすさまじかったと聞く。

何よりも人柄が温厚で、非常に優しい人だった。これもよくもてた大きな理由だろうが、私達男性客や一般人に対しても、すごく気配りをする人だった。「仏のゴロー」と呼ばれていたが、実は彼はこのニックネームを嫌っていて、「自分では鬼のゴローだと思っている。」と言っていた。

 彼のスナックで、しばしば著名な野球人を見かけた。田淵とは直接話をして、サイン入り色紙を書いてもらい、並んで写真に写ってもらった。余談になるが、田淵自身も(意外なことに)少しも威張ったところがなく、実に気さくに話をしてくれた。少しやんちゃな坊ちゃんが、そのまま大人になったような雰囲気も多少はあったが、その優しさと、私達に対する気配りには本当に驚いた。

 話題を遠井に戻して、彼の酒豪は有名だった。二日酔いで試合に出て、ヒットを打ったというエピソードは多数ある。しかし問題は超が付くほどのヘビースモーカーで、1日に100本以上は吸っていただろう。私にも「先生、タバコを減らす何かいい方法はないものかねえ。」と言っていたが、実際には死ぬまで減らす気も止める気もなかったのだと思う。

北新地の店を閉める直前には、肺気腫が進行して苦しそうにしていたと聞く。やがて気胸を発症して、大阪厚生年金病院(現JCHO大阪病院)に緊急入院した。呼吸困難が一段落すると、直ちに喫煙を再開していて、これには阪大の1年先輩の呼吸器外科医も呆れていた。

 さすがにその頃には死の予感があったのだろう。故郷で死にたいと言って柳井市に帰り、やはり「ゴロー」と言うスナックを開いていたが、店にはあまり顔を出していなかったらしい。私も帰省時に1度だけその店を訪れた。それが彼を見た最後だったが、表情は冴えなかったし、夜の9時過ぎには帰宅してしまった。

 やがて肺癌を発症した。いよいよ重症化して、最後は東京の病院に運ばれた。これを仕切ったのが、ものまね芸人の松村邦洋である。松村が遠井といつ頃から交流していたのかは知らないが、当時の松村は「遠井吾郎命」という感じだった。

 遠井は2005年に65才で亡くなった。松村らと一緒に遠井の最期を看取った1人に、実は私の高校の同級生がいる。詳しくは書けないが、その人は遠井の死後も松村と交流があり、同窓会の時に松村に電話をして、私を紹介してくれた。以後私も松村と交流させていただいている。松村のことも話せば長くなるので、別の機会に紹介したい。一言だけ述べると、彼もすごい人である。

 遠井吾郎先輩は、野球と酒とタバコと女をこよなく愛し、山口県人の心をいつまでも忘れない人だった。話し言葉も最後まで、やはり頑固なまでに山口弁だった。

神戸市産婦人科医会会報、2019年版に掲載。一部加筆訂正。