学生街の喫茶店

 60才以上の人で「学生街の喫茶店」という歌を知らない人はいないだろう。1972年の発売(最初はB面)だが、ブレイクしたのは1973年で、その年のオリコンチャートは3位だった。因みに1位と2位はいずれもぴんからトリオの「女のみち」「女のねがい」だった。確かにこの2曲もよく耳にしたが、今では我々の心にさほどの余韻を残していない。失礼ながら「女のねがい」などは殆ど忘れてしまった。

 この頃の歌謡曲は大きな文化だった。今日では「日本レコード大賞」の権威も地に落ちて、大賞受賞曲ですらここ数年間は聞いたこともないものばかりである。私達が齢を取りすぎたのだろうか。いや違うと思う。

 ここで1973年のオリコンチャートに掲げられた他の曲を示そう。4位:ちあきなおみ「喝采」、5位:沢田研二「危険なふたり」、6位:かぐや姫「神田川」、7位:チューリップ「心の旅」、8位と9位は天地真理で「恋する夏の日」「若葉のささやき」、10位:浅田美代子「赤い風船」、他にも麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」アグネス・チャン「ひなげしの花」、チェリッシュ「てんとう虫のサンバ」などがある。好き嫌いは別にしても、当時のこれらの歌は老若男女、殆どの人が知っていた。

 これらの中でマイベストの2曲は、本稿の表題でもある「学生街の喫茶店」と、実はオリコンチャートの20位にも入っていないのだが(何と85位!)ペトロ&カプリシャスで高橋真梨子が歌った「ジョニーへの伝言」である。

 

以下「学生街の喫茶店」について話を進める。作詞は山上路夫、作曲すぎやまこういちで、「ガロ」という男性トリオが歌った。私自身がこの歌をテレビで初めて聴いたのは1972年の暮れで、率直な印象は「懐かしい!」というものだった。歌詞の内容自体もそうだったが、我々が20才前後によく聴いていた歌(グループサウンズからフォーク)のフィーリングが再び掘り起こされたように感じた。

 前奏、間奏はボレロ調である。

♫ 君とよくこの店に来たものさ

 訳もなくお茶を飲み話したよ 

 学生で賑やかなこの店の

 片隅で聴いていたボブ・ディラン

 あの時の歌は聞こえない

 人の姿も変わったよ

 時は流れた ♫

 時は全共闘運動が終焉し、マルクス・レーニン主義や革命について熱く語っていた連中も、殆どその話題を口にしなくなっていた。私自身は貧乏学生だったくせにアルバイトで稼ぐ根性もなく、かといって真面目に勉強もせず、彼女いない歴1年で無気力な毎日を送っていた。

 しかしこの歌は心の琴線に触れた。同様の感覚を覚えた人が、同世代に多かったと思う。

 当時は「喫茶店」なるものも1つの文化だった。街を少し歩いて探すと容易に見つけることができた。あたかも今日のコンビニのようだった。確かにしばしば友人達と「訳もなく話した」。今日喫茶店といえばセルフサービスの、スターバックスなど1人で端末や携帯電話の画面を見ながら過ごす人の多い、そういう店が主流だが、これも「時は流れた」。

 この歌を聴いて目に浮かぶのは(あくまでも私自身の勝手な思いだが)同世代の友人が3-4人で、「そう言えばさあ、この頃はさあ、俺達こんなくだんねえことを言い合っちゃたりして、怒ったり喜んだりしてたよな。」と(どういう訳か東京弁で)昔話をだべっている、そういう情景である。

 全共闘など反体制運動の風潮(それにのめり込んでいたにせよ、アゲインストだったが巻き込まれて迷惑に感じていたにせよ)に疲弊した団塊の世代。しらけてきて現実に戻り、何か人生を考え直さないといけないなと思い始めた頃。当時の仲間達と会って語り合っているような、いわば心の郷愁を覚える曲なのである。

この歌のモデルになった喫茶店については諸説がある。よく言われたのは、お茶の水にあった「丘」で、私も予備校生時代に数回行った。確かに「学生で賑やか」だったし、「窓の外」に「街路樹」が見えたが、流れていた曲は「ボブ・ディラン」ではなく、クラシックの名曲だった。「丘」はその後閉店し、ゲームセンターになっていたが、それも無くなったと聞く。同地が今日どうなっているのかは知らない。

 他に早稲田大学近くの「プランタン」という説もある。私はここへも早稲田に行った友人と2-3回訪れた。「丘」と同様に「学生で賑やか」だったが、「丘」がずいぶん明るかったのに比べ、「プランタン」は店内が薄暗く、カップルでひっそりと話すにはよかったかも知れない。この店は何と今日も存続しているらしい。

 作詞をした山上路夫は具体的に参考にした店は無いと言っているし、山上自身も青山学院大学第二部中退ということだが、喘息のため学生生活を断念している。大学にも殆ど行ってはいなかったのだろう。

モデルの店がどこか、確かにそれはどうでもいいことかも知れない。しかし同年代で大学生活を送った人達には、いわば「私にとっての学生街の喫茶店」があるはずだ。私も学生時代に喫茶店によく行ったが、「学生街」となると教養部近くの石橋商店街にあった「ドレミ」がそれに相当する。同時期に大阪大学に通っていた人達なら、同様の回想をする人は多いだろう。この店はその後リニューアルされて「ドレミファ」となり(嘘のような本当の話)、やがて閉店して今は無いようだ。私自身がこの辺りに通っていたのは半世紀も前だから「時は流れた」のも当たり前である。教養部が終わって学部(大阪市内、中之島)に移ると、そこは学生街ではなくビジネス街だった。

「ガロ」を構成していたメンバーは、マークこと堀内護(1949年2月生)、トミーこと日高富明(1950年2月生)、ボーカルこと大野真澄(1949年10月生)の3人で、いずれも私(1949年8月生)と同世代だった。1976年に解散したが、トミーは1986年に事故死し、マークも2014年に胃癌で死亡した。唯一生存しているのがヴォーカルを担当したボーカル(ニックネームは「ヴォーカル」ではない)で、最近も1人で歌っているのをテレビなどで見かける。

 しかし今日の彼の歌は、当時のものと何かが異なる。1973年当時は、彼のハスキーボイスに何とも言えない哀愁があった。聴けば数年前の心のトラウマをほじくり返されて涙が出るほどだった。

 今は年寄りが昔の歌を懐かしみつつ楽しんで歌っているようで、哀愁はない。恐らく彼自身の心の中がそうなのだろうし、聴いている私の心もそうなのかも知れない。

本稿の最後に団塊の世代の愚痴を一言。

「日本をダメにした諸悪の根源が団塊の世代だ」という意見がある。そうかも知れないし、後の世代の人がどのように評価しようが勝手である。 しかし良くも悪くも大阪万博(1970年)の頃以降で日本を動かしてきたのは我々の世代である。

 後の世代の人達に対して皮肉めいたことを敢えて申すと、今後の日本は更に地盤沈下する危険性がある。その諸悪の根源は「ゆとり世代」だと思う。